南北朝についての日記?

ノー南北朝、ノーライフ。南北朝を愛してやまないド素人の恥かきブログです。

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足利尊氏と新田義貞 『増鏡』より

『増鏡』(井上宗雄/講談社学術文庫)の下巻を自分用にまとめているシリーズ。これで最終回となります!
記念すべき(?)最後のまとめは足利尊氏と新田義貞について。そう、ちょっとですが登場しているんです


登場の流れとしては、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆の船上山を拠点としたその同じころ、楠木正成の千早城攻防が激化、西国の武士たちは動揺に満ち、六波羅探題も対応に追われ…というあたり。これが元弘3年(1333年)閏2月のこと。

翌3月の10日過ぎ、播磨国の赤松円心という者が攻め入ってくるというので、にわかに京中の人々が騒ぎ出した。光厳天皇、後伏見・花園両院、春宮康仁親王が六波羅へ避難する。
六波羅軍は赤松勢を撃退。しかしあちこちで戦が始まりそうな様子なので、院は各家から武士を召し出すよう命じた。


このあと、尊氏さんが登場します!! 以下、長いですが意訳したものをどうぞ。

4月10日過ぎ、関東から足利治部大輔高氏が上洛した。高氏は一昨年笠置へも向かった者。後伏見院は高氏を頼もしく思い、後醍醐天皇の籠もる船上山へ向うべきよしを院宣にて賜う。
尊氏は鎌倉を出立する際、幕府に対し二心はけっしてない旨を誓紙に認めたのだったが、その内心はいかがかと疑いの目をもつ向きもあったという。

足利氏は源頼義の子孫で家柄もいいが、鎌倉の将軍が絶えてからは頭をもたげる源氏もなく埋もれ過ごしていた。しかし一族は広く多くその勢力は四方に及んでおり、諸国に足利氏に心を寄せる武士たちも多かった。
このような国家危急存亡の折、天下をうかがおうとするのではないかという噂があったがまさしくその通り、高氏は伯耆国へ向うと見せてまず京の西郊で一泊したあと、5月7日の夜明け方に京へ突入した。

大宮大路の木戸を押し開き、六波羅探題を目指して霞霞(くもかすみ)のごとくたなびき入る。二条大路より下の七つの大路を七手に分けた軍勢が、旗をなびかせ怒涛の勢いで東へ突き進む。とても向う者とてない。
この高氏は早くから後醍醐天皇の勅を奉じていたので、翻って六波羅を滅ぼそうとしたのであった。

鬨の声が雷が落ちたかのように地響きを起こす。雨よりも繁く矢が落ち、見ている前で人が次々と死んでいく。幕府方の武士で京に残っている者はすべて、あらゆる手段を用いて防ぎこれを最期と戦っていたが、とうとう一角がやぶられた。
つい先日院宣や宣旨を賜った者が裏切るなどと誰が想像しよう。天皇・上皇と公卿たちはただただこの事態に慌て戸惑うほかはなかった。



尊氏さんが出てきたーーーーーーー!!!!!!! と大いに興奮したこの部分。
鎌倉でも京都でも「寝返るのでは?」等と思われていたんですね。また『太平記』にも鎌倉で起請文を提出したエピソードがありましたが、それは事実だったのかもしれない…。

そしてここの部分も文章が素晴らしいです。解説に「(前略)『増鏡』の記述も、前に引続いて精彩がある。おそらくは作者が体験、とまでは行かなくとも、すくなくとも同時代に生きて見聞していたからであろうか。」とあり、また巻末の総解説の中の作者についての部分で国文学者石田吉貞氏の「元弘の乱の、叫びののしる声を直接聞いた人である」という評を紹介しています。
まさしくそういう感じなんですよ…。リアルで、特に上記の部分はまるで轟きが聞えてきそう(簡潔なんですけどね…)。


このあと、本文は六波羅探題滅亡の様子を描きます。関東を指して落ち行く途中で南方の時益が死亡、亀山院の五宮が待ち受けて攻撃、やむなく番場にて北方の仲時以下が自害したことなどが公卿たちの動向も交えて記述されている。

そしてそのすぐ後に北条氏滅亡の件りとなります。ここで新田義貞が登場!


さる程に、関東でも倒幕の機運が高まっていたものか、足利尊氏の一族の末流である新田小四郎義貞という者が、尊氏の4歳になる子を大将軍にして武蔵国で挙兵した。
将軍守邦親王の後見である北条高時・金沢貞顕・安達時顕・長崎円喜などはその知らせに驚嘆、いそぎ高時の弟・四郎左近大夫泰家を大将として5月14日に10万余騎にて向かわせた。

鎌倉幕府が北条氏の世になって百有余年、北条一族や被官などが各地に満ち広がっている。新田などという地方の一国人にたやすく滅ぼされるわけはないとみな楽観していたが、翌15日、敵がすでに鎌倉に近づいてきたというので人びとは世の終りとばかりに動揺した。

泰家は打ち負けて16日の夜、5~600騎にて鎌倉へ帰って来た。他の武士たちはみな新田方へ付いた。わずか中一日でこのような事態になるとはとても現のこととは思われない。
鎌倉に攻め入った軍勢を防ぎきれず、22日、高時以下は腹を切った。ここに鎌倉幕府は滅亡したのであった。



後醍醐天皇が隠岐を脱出してから、
・赤松円心の京都攻撃
・足利高氏、ひるがえって京へ入京・合戦
・六波羅探題陥落
・鎌倉幕府滅亡
と、これらのことをたたみかけるように、幕府が滅亡していくさまを語っています。筆致にすごいスピード感を感じます。

このあと、後醍醐が京へ帰ってちょっとその後の事を記述して『増鏡』は完結します。
(前回の大塔宮と楠木正成の回でもこのあたりのことは書きましたね)


さて、義貞さんが登場しましたが、小四郎とか武蔵国とか間違っていてヒドイ…。しかしそれ以上に目を引くのが、「尊氏の末の一族なる新田小四郎義貞といふ者」「わづかなる新田などいふ国人」(いずれも本文)という部分です。

“新田義貞は源氏の嫡流でもなんでもなく、足利氏庶流だった”という説は去年、『南朝研究の最前線』(呉座勇一編/洋泉社)で、わりと話題になりましたね。私も知らなかったのでびっくりしました。
しかしこれは谷口雄太先生が言いだしたことではなく、かなり前から提唱されていたのにみな無視(?)していたみたいですね。(=それだけ『太平記』にみんな引きずられているということらしい)

私も谷口先生の「新田義貞は、足利尊氏と並ぶ「源家嫡流」だったのか?」を読む以前に、新田は足利の一門というのを実は知ってたはずなんです。
例えば、小学館新編日本古典文学全集『太平記』第1巻、義貞の初登場(巻第七「新田義貞に綸旨を賜ふ事」)の部分での注に、『神皇正統記』に義貞を同じように「高氏が一族なり」とあるということや、『楠木合戦注文』で足利と新田の記述に格の差みたいのが見受けられるということが紹介されている。

読んでいたのに、「新田氏は源家嫡流」という先入観にとらわれてスルーしていたようです

そして『増鏡』も『神皇正統記』も同じことを言っているということは、当時の人々の共通認識ですね。ちなみに足利氏が源氏の嫡流というのも同様に当時の共通認識だったらしいですが、最近、足利氏は源氏の嫡流なんかじゃなかったという説があるというようなことを、どこかで見た気がします。どこだったかな…(ついていけないよー)。


義貞さんについて、もう一つ残念な(?)ことがあり、『太平記』で勾当内侍を下賜されたエピソードがありますが、『増鏡』では、勾当内侍は後醍醐天皇の側近・北畠具行に与えられています。(「二つなきものと思ひかはして過ぐし」たとあります…)
『太平記』の方の勾当内侍エピソードは『増鏡』からの派生ではないかとのことで、なんだか義貞さんのイメージがどんどんぼやけていってしまいますね…。



『増鏡』における尊氏と義貞の登場シーンは以上の1か所ずつ。『増鏡』が描いてきた鎌倉時代を終わらせたのはあくまでも後醍醐天皇で、終止符を打つ実行者として登場しました。
『増鏡』は宮廷を中心とした鎌倉時代史なので、武士についての記述はかなり遠目の目線で、『太平記』とはずいぶん違います。そしてそこもまた面白いところだと思います。




  ★ ★ ★



さて、この回をもって『増鏡』シリーズは終りとなります。お付き合いいただき、ありがとうございました!
『増鏡』自体の感想や面白さなどは各記事に織り込んでいるつもりなので、以下はこのシリーズについての思いなどを綴りたいと思います。


古典に詳しいわけでもなんでもない私が訳したり紹介したりなど、僭越とは思いつつ、どうしても書きたくてまとめました。
『太平記』は読んだことがあるけど『増鏡』はない、という人も結構いるんじゃないかとも思い…。
毎回冒頭に「自分用」とあるのは、自分が興味があった部分だけをまとめているからで、実際にこの記事群を資料(?)にして見返したりもしています。


『増鏡』は擬古文体で、学生時代の古典の授業を思い出したりもしました。子供の頃はあんなに難解だったのに今では何となく意味がわかるだとか、読みつついろんな思いが湧きましたが、結構最近気づいたのは、和歌と同じ(?)なんじゃないかということ…。

和歌って、厳密に文法どおりじゃないというか、全体で意味が通っていればいい的な感じだと思うのですが(←とても乱暴な言い方でしかも間違っているような気もする)、『増鏡』(擬古文)も、前後あたり全体で意味をつかんでいくんじゃないか、と思いつつ訳したり読んだりしていました。

それから、近・現代文学と違っておおまかな描写に終始しているのも、読者が想像を働かせることが前提なのかなとか、想像を働かせるのが当たり前だったとか、それによって一人ひとり解釈が微妙に違ってもいいのでは、だとかも感じました。
なので、私の意訳はそんなふうにやっていました。(それに気づいたごく最近からはそれを意識して、という感じでした)

これが合っているのか間違っているのかはわかりませんが、これから勉強を続けていく中で、また新たな段階へと進んでいくと思います。
「恥かきブログ」なので、どうかご容赦を…m(_ _)m


『増鏡』を知ることができ、本当によかったです。
ほかの出版社から出ているものも読んでみたい!

作者の方、そして『増鏡』を残してくれた方々にお礼を言いたい気持ちでいっぱいです

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*Comment

古典が古典たる理由だな 

 ブログを拝見しまして、タイトルのようなことを思いました。そして中高生時代に習っているはずなのに、当時全く理解出来なかった事も(笑)。

 古典もそうですが、子供の頃に読んでいた本をもう1度読み返すのも良いなぁと思いながらも出来ないキラズです。
 中高生の時に使っていた図書カードを未だに持っていますが、枚数にして20枚近いので、恐らく500冊は超えているのではなかろうかと・・・。
 その他、子供の頃どこで知ったかすらも覚えていないのですが、ワンフレーズだけ覚えていて読みたい本というのもあり、胸中葛藤しまくっております。とかく時間が足りないです。

 それにしても義貞さんって、何か扱いが雑ですね。書状に貞義と書かれたりもしていたし、どれだけ存在感というかインパクト?が薄かったんだろうか。
 『神皇正統記』では尊氏さん共々源と書かれていますね。読んでいるとおやっさん(親房)どんだけ武士嫌いなんよ!?とツッコミを入れたくなります(←それ以前にタイトルで気が付け)。

 あ、そういえば、二子玉川に新田義興の配下にまつわる場所があるので、機会があれば足を運んでみようかと思っています。
 個人的には土地に染み付いたものがおぞましいのであまり近寄りたくはない場所なんですが、好奇心には勝てないってことで(苦笑)。

 相変わらずの長文すみません<(_ _)>
 それではお邪魔様でした。

Re: 古典が古典たる理由だな 

古典、習っていた当時はもしかしたら理解できなくてもいいのかもしれないとも思います。何でも吸収する時期に学習するということに意味があって、そして現在の私のように超ロングパスで、その成果が現れる…みたいな。

あと、これは『太平記』でも感じたんですが、訳している時に、古語の凄さというか、パワーみたいなものを感じました。
一言で的確にそのものを言い表せる言葉が多い印象も受けました。
いまパッと思い出せないんですが、例えば「まくる」とか。あ~、ピックアップしておけばよかった…。


>ワンフレーズだけ覚えていて読みたい本というのもあり

あああ、あります、あります!! 物凄くもどかしいですよね!
私の場合はいま一番思い出したいのが、学研の「科学と学習」の夏休みの読み物特集です。国会図書館にも全てはないそうで、知りたい作品のタイトルも作者も掲載年も思い出せない…(これは単なるノスタルジーですが)

これまで処分した本の中にも、もしかしたら今読んだらすごく感銘を受けるものもあったかもしれない。
本当、時間がいくらあっても足りませんね。
でも、自分にとって本当に必要なものとはジャストタイミングで再会できるんじゃないかななんて、楽観的に考えてもいます(笑)


>二子玉川に新田義興の配下にまつわる場所

もしかして兵庫島公園ですか? そうだとしたら、昨日知った場所なので超タイムリーでびっくりです。
その「土地に染み付いたもの」って、怨念…? ひぃぃ~!
それとも、たしか田園都市線沿線は、旧地名がけっこう怖い感じなようなことを聞いたことがありますが、それかしらん。いま検索してみたらこれは横浜の方だから違うかな。

でも私は零感なので無問題です。誰が何と言おうと、大丈夫なんですっ!!(←すごいビビッてます…~_~;)


こちらこそ長くなりまして済みませぬ(汗)
コメントありがとうございました!
  • posted by カオリ丸 
  • URL 
  • 2017.11/12 20:06分 
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二子玉川の史跡は当たりです 

 こんばんは。
 子ども向けの学習ものって興味深いものが多いですよね。しかし往々にして内容は覚えていれどもタイトルや著者については全く記憶がない(苦笑)。
 
 余談ですが、超伝導のことを子ども向けの科学特集で知ったのですが、後々実際に磁石を作るところから経験することになったので、殊更印象に残っています。

 自分が覚えているワンフレーズのものは何故か海外のが多いです。未だに読めていないのですがルイス・デ・カモンイスの『ウズルジアダス』のフレーズ(ここに地果て、海始まる)なんてどこで知ったんだか?と思っています。

 二子玉川駅周辺は元々湿地帯で、ヌシを退治して埋め立てたとのことで自分が感じているのは残留思念か何かじゃあないだろうか?と思っています。
 これは以前その界隈で務めていた人に伺った話ですが、実際今までも某建屋の中に出るとのことです。ちなみに形状は大蛇だそうです。
 
 元々が湿地帯だった場所というのは溜まりやすいので、地名を変えられることが結構多いそうです(今自分が住んでいるところもそうです)。

 上のブログにありますが、応仁の乱絡みの書籍、コレでもかっ!てなくらい相次いで発行されていますね。
 南朝天皇の末裔である小倉宮さまも担ぎ出されているので、もう少し南北朝やその前夜である鎌倉末期にも光当ててくれてもなぁと思います。
 あと、ブログにある書籍は購入しました(証拠⇒http://izayouryusui-midaresetsugekka.hatenablog.com/entry/2017/09/20/000000_1

 ・・・何だか煩わしいくらいの長いコメントですみません(冷汗)。それではお邪魔致しました<(_ _)>

Re: 二子玉川の史跡は当たりです 

二子玉川駅周辺の大蛇のお話、その昔はそんなことがあったんですねえ…。
そして大塔宮を手にかけた淵辺義博のことを思い出しました。
境川に現れた大蛇(龍?)を退治した伝説です。二子玉川とはちょっと離れてるのかな? あの辺りは地名と場所がよくわからないんですけど、まあ、関係ないか(笑)

実は私が住んでいる市域も昔は湿地帯だったと聞いたことがあり、キラズさんのコメントでちょっとだけ調べてみたりしました。
あんまりわからなかったのですが(笑)、別のことを知ることができたり楽しかったです(*^_^*)

それと、ブログ、拝見させていただきました。
あんなに盤石だった鎌倉幕府も150年で崩壊していますし、いまの内閣政治も、いつかは違う形になっているかもしれませんね。世の中は変わっていくのが理ですので…。

コメントありがとうございました!
  • posted by カオリ丸 
  • URL 
  • 2017.11/23 20:03分 
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Author:カオリ丸
下総国の住人。
南北朝初心者で、足利尊氏が好きです。
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