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南北朝についての日記?

ノー南北朝、ノーライフ。南北朝を愛してやまないド素人の恥かきブログです。

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九州にいた皇子たち

このところブログにさける時間がほとんどなく、週末に更新できるかどうか、という感じとなっております。
それも、書いたけどUPしていない記事の更新のみとなります。ニュース系を楽しみにしてくださっている方には申し訳ありませぬ…。

本日は約2週間ぶりの更新! 九州についての記事です


 *****


『征西将軍府の研究』(三浦龍昭著/青史出版)を読んでいたら、南北朝時代に吉野から九州に下向した皇子・公家の一覧表が出ていたのだが、皇子の人数に驚いた。
7人もいたのだそうです。

以下その内訳。

〇守良親王(五宮・五辻宮)…亀山天皇皇子
〇某宮(三位中将・源宗治?)…後醍醐天皇猶子?
〇懐良親王(征西将軍・征夷大将軍?・中務卿・式部卿)…後醍醐天皇皇子
〇菊池四宮
〇良成親王?(後征西将軍)…後村上天皇皇子
〇伊倉宮…懐良親王皇子?
〇植田宮(故宮僧正子)

※良成親王に「?」がついているのは、実は懐良親王の後をうけて征西将軍(後征西将軍)となった皇子の名前が史料上では現時点で確認できていないからです。


私が知っているのは懐良・良成両親王のほかは、伊倉宮と植田宮(わさだのみや)だけ。
伊倉宮は建徳2年(応安4・1371年)に菊池武光に奉じられて豊後の高崎城攻めに加わったこと、植田宮は天授3年(永和3・1377年)に今川了俊に菊池一族と共に討たれたということしか知らないけど…。
(でもこの二人については、ほとんどこれが全ての情報といっていいかもしれない)


九州関係は残存史料が少ないそうで、分かっていないことが多い。
皇子たちについて出自や活動の痕跡がこれだけ判明していないのだから、もっといたとしてもおかしくないなと思う。それは公家(38人)にも言えることだ。

史料が少ないから簡単ではないだろうけど、九州南北朝についてもっと研究が進むといいと願っている。そしてもっと知られてほしい。

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*Comment

後南朝 

九州への造詣を深めることは素晴らしくも困難。
菊池氏は奥州へ流れ、菊地氏を名乗られる等あり。
名和氏は肥後国南部に蟠踞するも追いやられ、末裔は伯耆に復帰されることあり。
この諸族を比べるに…
菊池氏は明治に西郷ドンとの関係もあり、菊池神社を中心とする歴史として再興される。
名和氏は南朝所縁の伯耆の地にて、これも神社を中心として再興される。
奥州は江刺に菊池神あるも、肥後南部に名和神社無し。
宇都宮にも菊池あり。
承応4年(1655)未3月13日
宇都宮菊地氏創建 此御方より本家興り候由(淡雅 店教訓家格録より) http://home.f07.itscom.net/rainbow/trip2.html
西米良神楽は参考になるかも。
「村所神楽」、「小川神楽」、「越野尾神楽」の三つで構成されています。起源は南北朝時代に遡り、北朝の足利幕府に敗れ、米良の山中へと逃げのびてきた懐良親王・菊池氏に追従した公家や武士らが伝えたとされる。
番付の「大王様」は懐良親王、「じい様」は良宗親王とされ、「ばあ様」はその奥方、「七ツ面」は7人の孫たち。「住吉」の華麗な舞いを挟んで「八幡様」は米良重鑑。その面は西米良に没した修験僧大円の作。
村所八幡神社
正平十二年(1357)丁酉征西将軍懐良親王鎮座に下り、八代郡小野に薨ぜられた歳、一王子があった。爵松丸と称せられ、のち良宗親王と称した。以後争乱相つぎ賊威益々盛んであったので、米良石見守重為公(本姓菊池氏米良に潜居後天氏又は米良氏と称する)良宗親王を奉じて米良山に潜居した。その間に懐良親王のためにこの社を創建。
愚論とは存じながら申すならば、臣下家祭の御宮に帝は勿論皇親王も祀らず。「天子神社」を検索されれば判然ですが、九州は南朝より古き歴史の継承あり。これに比して貴種なるも短期となる歴史は扱い難き民草にも想い致すべきかと。
  • posted by 西陣南帝乃臣 
  • URL 
  • 2017.10/08 17:07分 
  • [Edit]

Re: 後南朝 

いつも色々とありがとうございます。
村所神楽は聞いたことがあり、いつか調べてみようと思っていました。

コメントありがとうございました!
  • posted by カオリ丸 
  • URL 
  • 2017.10/08 22:14分 
  • [Edit]

北部王家 

北部王家も忘れんでけれ~。
「青森県の歴史」(宮崎道生著 山川出版)に基づき記述すんべ~https://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/54852221.html
八戸南部で一番有名な人物は、陸奥守北畠顕家を助け各地を転戦し最後は和泉国石津で主君顕家と共に戦死した南部氏は弟の政長が継承します。政長の子が信政
信政は吉野の行宮に仕えていました。おそらく伯父師行に従って陸奥から上っていたのでしょう。
あるとき信政は、南朝後村上天皇から聖旨を頂き大塔宮護良親王の遺児八幡丸を奉戴することに。親王宣下されなかったところを見ると母親の身分が低かったのでしょう。「青森県の歴史」には八幡丸は良尹(ながただ)と名前を変えたとだけ記され、親王とは書いてないのです。
そもそもなぜ南部信政に八幡丸が託されたか。
後村上天皇から
「信政よ、朕は常々気に掛けていることがある。それは亡き兄護良親王の遺児八幡丸のことじゃ。八幡丸も成長し十六歳になる。兄に似て智勇に優れた若者になった。できればどこか一国を与えて南朝の中で働かそうと思うが良き国はないか?」
と下問があり、これに対して信政は
「それならば適当な国があります。我が領地の北、日ノ本の北の端にまだ領主のいない土地があります。海に囲まれ山と原野が連なりその土地は広大、将来は(開発が進めば)一万の兵を養うことも可能でしょう」と答えたそうです。
信政が示したのは下北半島でした。
八幡丸が元服し良尹と名乗ったことは前に述べましたが、新田氏を称します。
  • posted by 蠣崎 
  • URL 
  • 2017.10/12 20:30分 
  • [Edit]

Re: 北部王家 

いつもいろいろありがとうございます。
本文にも書いていますが、ブログにさける時間がなく、お返事もなかなかすぐに出来ませんで、申し訳ありません。

コメントありがとうございました!
  • posted by カオリ丸 
  • URL 
  • 2017.10/14 00:04分 
  • [Edit]

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カオリ丸

Author:カオリ丸
下総国の住人。
南北朝初心者で、足利尊氏が好きです。
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