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南北朝についての日記?

ノー南北朝、ノーライフ。南北朝を愛してやまないド素人の恥かきブログです。

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工藤二郎左衛門尉と工藤二郎右衛門尉(その1 工藤高景)

古典太平記、やっとちゃんと本を買った。実は、巻第七「千剣破(ちはや)の城軍の事」を読んでいてあることが気になり、調べたく思って3種類も買ってしまった。
買ったのは、新潮日本古典集成全5巻のうち、1~4巻と、角川文庫ソフィア「太平記」第1巻、あと小学館の新編日本古典文学全集全4巻のうち第1巻。もちろん全部古本。
気になったのは、以下のエピソード。(新潮日本古典集成を参考にしました)

楠木正成の籠もる千早城は難攻不落で、巧みなゲリラ戦法のせいもあり、寄せ手の幕府軍はほとほと手を焼いていた。何をやっても痛手を蒙るばかりなので、兵糧攻めに転換。
だがそうするとやることもなく暇になってしまった。そこで、花の下連歌師を呼んで、一万句の連歌を始めることにした。
発句は長崎九郎左衛門師宗。

さきかけてかつ色みせよ山桜

発句を受けて、工藤二郎右衛門尉が、

嵐や花のかたきなるらん

と脇の句を付けた。
技巧も文句なく素晴らしく、優美な句だとはじめは絶賛されたが、後から考えてみると、味方を花に、敵を嵐に例えるとは縁起が大変悪い、不吉の象徴のようだ、と思わぬ者はなかった。

…という、工藤二郎右衛門尉がしょぼんなお話なのだ。
新潮の注に、この連歌の訳と解説がある。
発句は、「春になれば他の花に先がけていち早く咲く山桜よ、早く咲いておくれ。「かつ」は、いち早くの意と「勝つ」を掛ける。戦闘に先だち戦勝の予兆を見せよとの願いを含ませて詠んだもの
脇句は「せっかく咲いても、山桜にとって嵐がにくい仇となることだろう。この句は発句の戦勝を祈る予祝の意をぶちこわすことになっている
だそう。「ぶちこわす」とは容赦ない…

私はこのしょぼんなことになってしまった工藤二郎右衛門尉がとても気になってしまった。この人はその後どうしたことだろう。700年も後にまで、「やっちまった」ことが伝わってしまって気の毒だ。
ということで、尊氏さんに輪をかけて引きこもりな私は、ネットと手持ちの書籍のみで調べてみることにした。

******************

まず、この工藤二郎右衛門尉という名前。古典太平記にはこの一度しか見えず、そのかわりにそっくりな「工藤二郎左衛門尉」という名前が何度も登場している。
この千早攻めの幕府方面々の名前の列記が巻第六「関東の大勢上洛の事」にあり、そこにも「工藤二郎左衛門尉高景」で出ているので、流れからいって右衛門は左衛門の間違いではないかと考えられているようだ。
また、太平記は諸本が多いが、古い形のものでは「工藤二郎左衛門尉」(天正本)としている。
この連歌のエピソードを紹介するものには、必ずと言っていいほどに「工藤二郎左衛門尉高景か」という注がついてくるし、中央公論社の「日本の歴史8 蒙古襲来」では、ズバリ「工藤高景」と言い切っている。
実は同時代に「工藤右衛門尉」を名乗る別の人物がいるのだが、ここでは「左衛門尉高景」と決定して話を進める(「右衛門尉」については後ほど詳述するつもり)。

ではしょぼんな脇句を付けてしまった(何度も言うな)、工藤二郎左衛門尉高景は、いかなる人物か。まずは来歴を見てみよう。
彼は得宗被官(御内人)であった。
侍所に所属していたと考えられる。これは私の推測だが、古典太平記に現れる彼の役柄の性質上そう考えていいと思う(のちに詳しく記す)。
工藤氏は伊東氏など全国に分流を多く持つ氏族だが、高景は伊勢の長野を本拠とする長野工藤氏の流れと言う説が有力だ(ほかに、遠江国の勝間田氏の始祖だとか、駿河工藤氏だとかの説も見られた)。父は祐藤で、高景はその三男か四男。
工藤氏は得宗被官の中でも「特権的支配層」(有力得宗被官家)であった。
生没年は不詳。ただ、史料に初めて高景が登場する1321年(元亨元年)には名前からすでに元服しているのがわかる。
そして、1322年(元亨2年)~1328年(嘉暦3年)の間に任官したとされている(元服と任官はふつう同時なのではないかと思っていたのだが、そうでないパターンもあるらしい)。
これらから高景の年齢を推測してみると、仮に1321年(元亨元年)の前年に15歳(数え)で元服したとすると、1306年(徳治元年)生まれということになる。10歳だと1311年(応長元年)生まれ。だがそれだと若すぎる。

というのも、前述した、高景が記録に初めて登場するというのが、1321年(元亨元年)の幕府公式行事「的始め」なのである。「的始め」とは正月恒例の行事で、鶴岡八幡宮などで特別に選ばれた数名の者が歩射や騎射で弓を射るらしい。
その、1321年(元亨元年)の的始めですでに元服し、また、曲がりなりにも武家の象徴である弓を射るという儀式に出場するほどな者ならば、やはりあまり若年ということは考えにくい。そして任官がやや遅れているという事情を合わせて考えてみると、1321年(元亨元年)時ではおそらく14歳~16歳(数え)くらいではないだろうか。
ということは、高景は1306年~1308年生まれということになる。
(個人的には、1308年説を押したい。任官が遅すぎる気がする)

記録に登場する工藤高景を時系列に並べてみる。(年齢は全て数え年)

◆1321年(元亨元年)〈14歳~16歳〉「御的日記」
「工藤左衛門次郎高景」

◆1322年(元亨2年)〈15歳~17歳〉「御的日記」
「工藤左衛門次郎高景」

◆1323年(元亨3年)〈16歳~18歳〉「北条貞時十三年忌供養記」
「工藤二郎左衛門尉」が高景ではないかとされている。

◇1324年(正中元年)9月24日〈17歳~19歳〉「武家年代記」
工藤右衛門二郎、諏方三郎兵衛御使いとして京都に上る。
※1 これは、太平記巻第一に、日野資朝と日野俊基の捕縛をすべく、長崎四郎左衛門尉泰光と南条次郎左衛門宗直が上洛と書かれてある東使のことであるが、史実は上記二名(諏方は諏訪)である。
※2 工藤右衛門二郎を高景とする説もあるが、違うというのが大方の意見であるようだ。
※3 高景(であるとして)弱冠17歳であるが、諏訪は同じ得宗被官でも工藤より上位の執事家であるので可能かと思われる。

◆1328年(嘉暦3年)〈21歳~23歳〉「御的日記」
的始めで一番筆頭の射手を勤める。
※これは非常に名誉なことであった。ちなみに、工藤氏は弓の名手の家柄らしい。

◇1332年(元弘2年)1月〈25歳~27歳〉「太平記 巻第四 笠置の囚人死罪流刑の事」
東使として二階堂信濃入道行珍とともに上洛。
※これは史実ではないようである。

◆1332年(元弘2年)6月3日〈25歳~27歳〉「太平記 巻第二 俊基誅せらるる事」
日野俊基の処刑の際、俊基の家人・後藤助光と会うことを許している。(斬首の奉行を勤めている)

◆1332年(元弘2年)9月20日〈25歳~27歳〉「太平記 巻第六 関東の大勢上洛の事」
畿内西国の兇徒のため関東より上洛する軍勢の一人として見られる。

◆1333年(元弘3年)1月30日〈26歳~28歳〉「楠木合戦注文」
金剛山の大和路(搦め手)方面攻撃軍の軍奉行として、「工藤二郎右衛門尉高景」と出ている。
※1 前年9月に上京した軍勢がこの1月に出陣したので、これは「左衛門」の単純な間違いだろう。
※2 軍奉行は大将の下で、戦の前線で実戦を指揮し、首実検等をする重い役。

◆1333年(元弘3年)2月〈26歳~28歳〉「太平記 巻第六 千剣破の城軍の事」
長崎九郎左衛門尉師宗と連歌に興じる。

◆1333年(元弘3年)3月〈26歳~28歳〉「太平記 巻第七 足利殿御上洛の事]
高時の使いとして足利尊氏に上洛を促す。
※「工藤左衛門尉」だけであるので、高景かどうかはわからない。私は何となく別人じゃないかと思っている。


記録で確認できるのはここまでであった。
こう見てくると、工藤高景はもっぱら軍事的な職掌に携わっていたのがわかる。ここから、高景は侍所に所属したと考えた所以(侍所は、平時においては検断、決罰、騒動鎮圧、戦時においては謀反人の捕縛・連行・処刑、侍大将、軍奉行、首実験などを担う)。


六波羅探題・鎌倉幕府滅亡後、工藤高景はどうしただろうか。
残念なことに、いちばん知りたいことがわからなかった。
ただソース不明ながら、若干の情報はある。
足利尊氏の配下となり、手柄によって「丸に二つ引き両」の家紋を使うことを許された。ほかにはなんと、高景は幕府奉公衆の一員になったという記述もあった。
幕府滅亡時、鎌倉にいなかったので生存の確率は高いのではと思うが、千早攻めの幕府方である阿曾時治、大仏高直、長崎高貞がのちに出家・降伏し、建武政府によって投獄・斬首されているから、どうだろうか。
そのほか、「工藤二郎」が北条時行とともに斬首、という記録(「鶴岡社務記録」)や、「夜、護良親王御参内の次を以、武者所に召籠奉て、翌朝に常磐井殿へ遷し奉り、武家警固し奉る。宮の御内の輩をば、武者の番衆兼日勅命を蒙りて、南部工藤を初として数十人召預けられる。」(「梅松論」)という、護良親王の手の者として活動していたらしい「工藤氏」がいたのが確認される。
また、「蓮華寺過去帳」には六条川原で斬られた人々として「公藤次郎 同次郎右衛門尉〈52歳〉」とあるらしい。これは年代がわからないが、もしかしたら護良親王の手の者の処刑なのかもしれない。

だが、これは確実だが、高景の直系(と言ってもいいと思う)の子孫・分部氏が、江戸時代には近江大溝藩2万石の大名となり、明治に入って子爵となった、とのこと

分部氏‐Wikipedia

(なお、工藤氏の系図は何種類もあって、そのどれもが少しずつ違う。このウィキの系図の場合も、ほかとちょっと違います)
これを知って、少しホッとした。高景の子孫は栄えている。

******************

しかし今回、工藤高景のことを調べていて、たった一人の人物なのに、何通りもの情報が錯綜していて、正直驚いた。
ここに記さなかった情報もたくさんある。逆に、系図に載っていなかったり。辻褄が合わなかったり。
疑問も生じた。工藤氏は「祐」の字を通字にしていて、系図を見ると「祐」だらけなのだが、高景だけポンと突然毛色が違うのだ。
だいたいの系図で一致しているのが、父親は祐藤、兄弟(兄?)に祐房、祐高、というもので、そのほか叔父・甥・従弟など周囲は気持ち悪いほど(失礼)「祐」だらけなのに、本当に不思議だ。
奥州工藤氏に「景」の字を使う人物が多いらしく、何かいろいろとありそうな? 任官が遅れた理由とかも関係しているとか(あてずっぽう。さっぱりわからない)。

ともかく、例の連歌の時点で高景は26歳(1308年生まれ説)。若いんだもの、そんなこともあるよ!(作り話かもしれないしね。そもそも、発句の長崎九郎左衛門師宗が、来歴のわからない人らしいので)ということで、工藤高景の項を終わりとする。
次は機会を改めて、「工藤二郎右衛門尉」をまとめてみたいと思う。

その2はこちら。

゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜゜
追記(2015年3月14日)

工藤高景のウィキペディアが出来ていますので、詳しくはそちらをご覧になったほうがよろしいかと思います。
(この記事はウィキがまだない時に書いたものです)


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