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南北朝についての日記?

ノー南北朝、ノーライフ。南北朝を愛してやまないド素人の恥かきブログです。

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濃密吉野&京都旅 吉野編(2日目)その1

吉野&京都旅行、2日目です。

(1日目その1はこちらその2はこちら



↓1日目に引続き…吉野ではこちらのツアーに参加しました。
太平記の里感涙体験ツアー表
太平記の里感涙体験ツアー行程表

↓配られた吉野の地図。
吉野みてあるき

ツアーは2日目からの参加者も受け付けていましたが、1日目からの参加者だけだったので(内容からしてそうだと思いますよー)、宿からバスに乗ってまず最初の予定地である如意輪寺へ。

如意輪寺山門
如意輪寺山門

塔尾山椿花院如意輪寺は延喜年間(901-923)の草創で、後醍醐天皇が吉野に入ってより南朝天皇の勅願所となったお寺です。
後醍醐天皇陵があったり楠木正行との縁のあるお寺であることは、南北朝ファンの皆さんならご存知ですよね。

庫裏の前で副住職と前夜もお世話になった田中さんが、寒い中待っていてくださいました。
はじめに副住職による、お寺のたどってこられた歴史や後醍醐天皇とのかかわりなどのお話がありました。副住職のお心がこもったとてもいいお話で、こちらの心にもすうっと入って来ました。

その後、田中さんの案内で寺内をめぐりました。

如意輪寺 境内見取り図
リーフレットより如意輪寺境内見取り図

まず後醍醐天皇のお墓、塔尾陵へ。

後醍醐天皇塔尾陵1

後醍醐天皇塔尾陵2
後醍醐天皇塔尾陵。

思っていたよりもかなり小さかったです。あんな巨大な存在感の人が、とちょっと絶句するような思い…。

後醍醐天皇の遺言によりこの如意輪寺に埋められたのだそうです。これも有名ですが都のある方角・北を向いているという天皇陵の中でも例をみないお墓ですね。(天皇は生前も死後も、必ず南面しているそうです)
北向きということは、つき従ってきた臣下たちに向けてのメッセージでもあるという田中さんの言葉が印象に残りました。
また、実は後醍醐さんはここではなく、同じく吉野にある別の山の頂上に葬られたという伝承があるというびっくり仰天なお話も!!

時間があまりなくてじっくりと対面する暇がなかったのですが、ここを離れる時、なんだかすごく後ろ髪をひかれました…。


後醍醐天皇陵に向かう階段の途中に、長慶天皇皇子・世泰親王のお墓もあります。

KIMG0980.jpg
世泰親王墓。

大正時代に作られたお墓だそうです。確か明治天皇が「南朝の天皇も天皇である」と宣言したおかげで、という経緯だったと思います。
4月に訪れた福岡県の八女市でも、良成親王の存在は明治のころまで秘匿していた…ということを聞いていたので、これもすごく頷けました。

また、後醍醐天皇同様、この世泰親王も実は別のところに葬られているという伝承があるとのこと!

こういった地域に伝わる伝承を耳にするのは、旅に出、訪れて味わえる醍醐味ですね


宝物殿では有名な「楠木正行辞世の扉」を見ることができました!!
写真撮影厳禁でしたので、如意輪寺さんの公式サイトから画像をお借りしました。

楠木正行公辞世之扉
この画像は和歌が書かれた(彫った)部分のみで、実物は扉そのものの形状でした。

 返らじとかねて思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる

(梓弓で射る矢が立ち帰ることがないように、再びこの世に帰ってくることはあるまいと思うので、あらかじめこの過去帳に名を連ねることである)『新潮日本古典集成 太平記四』P158

楠木正行は後醍醐天皇のお墓にお参りした後、この和歌を鏃にて扉に刻み、そののち過去帳に名前を書き止めて、そして四条畷の戦いに出陣していきました。
生きているうちに過去帳に名前を書くという行為は非常識ともいえ、だからこそもう生きては帰ってこないという強い意志がここには顕わされていると田中さんは言っていました。

楠木正行の髻塚
楠木正行の髻塚

正行とその一族・部下143名が出陣に先立ち髻(もとどり、まげのこと)を如意輪寺に奉納、その髻を埋めたところです。

KIMG0983.jpg
弁内侍の至情塚

正行死後、尼になった弁内侍の髪を埋めた塚。
後村上天皇の女官・弁内侍の難儀を正行が助けたことから、後村上天皇が正行に弁内侍を、とのお言葉を賜ったが、正行は遠くないうちに戦死することを覚っていたものかこれを断った…という物語が、『吉野拾遺』という書物にあるそうです。

髻塚とともに、Fさんが9月の末に手作りのプリザーブドフラワーのブーケをお供えしたとお聞きしていたのですが、まだちゃんとありました!!(写ってますよね
生花をお供えしても、すぐ鹿が食べちゃうのだそうで作られたとのことです。
私の目にはFさんの真心が正行や内侍にしっかりと伝わっているように見えました。

私は正行のことをまだよく知らなくて、でも、よく知ってしまったらすごくつらくなりそうということは想像できる…
その時はきっと来るから、今はまだ、そっとしておこうと思っています。


如意輪寺-御朱印
如意輪寺御朱印。
「後醍醐天皇」と入っていますが、このバージョンは実はちょうどこの日の前日までと張り紙がしてあったのを、Fさんが頼んで下さって快く入れていただけました♪♪ Fさん感謝です

それと、こちらにはオリジナルの正行クリアファイル(A4サイズ)が売っています。
如意輪寺-楠木正行クリアファイル
シブくてかっこいいですよね。元の絵は切り絵なんですよ!



次は吉水神社です。
勝手神社前でバスを降り、そこから徒歩で向かいました。雨がぽつぽつと降り始め、「今日も山時雨が降っているのね…」とこの時は思っていました。

吉水神社
吉水神社。↑これは奇跡的によく撮れた1枚!!(笑)

吉水神社は廃仏毀釈の際に神社となりましたが、それまでは金峯山寺の塔頭で吉水院といいました。
祭神は後醍醐天皇、楠木正成と吉水院宗信法印が合祀されています。
延元元年(1335年)12月、京を脱出した後醍醐さんがはじめに入ったのがこの吉水院でしたが、翌年春に実城寺皇居へ移ったとのこと。
(吉野に来るまで、実城寺と吉水院とどっちも皇居であるという記述を読んでいて、どっちやねん! と思っていたのでしたが、疑問が氷解しましたよ~!)

源義経が匿われたり、豊臣秀吉が花見に訪れたという歴史エピソードの多い神社でもあります。

吉水神社には調べてみたら本殿などがあるそうですが、すぐに書院に入り拝観しました。
こちらは書院が有名ですよね。神社に書院というのも面白い取り合わせですが、もともとがお寺だったので建築は寺院様式なんですね。

書院は全体を時代(建築・修繕年代)別に三層に分けることができ、手前の方から奥へ向って新しくなっていくそうです。
いちばん手前のは南北朝時代!!!
田中さんにこの頃の建築の特徴などをたくさん教えていただき、大変勉強になりました!
その内の一つをご紹介すると、このころは板を真っ直ぐ平らにならすのに槍鉋(やりがんな)を使っていて(今の鉋は近世に出来たもの)、書院の天井板には槍鉋を使った跡が認められるそうです。力加減により深く入ってしまうことがあるらしい。
「このへんがそうですね」と指示してもらいましたが、全然わからなかった…
ちなみにこの南北朝時代の部分は、「義経潜居の間」や「弁慶思案の間」などがあるところです。
時代が合わない? と思ってしまいますが、修繕年代ということなのだと思います。空間は合っているということ。

3つの層の中間には後醍醐天皇玉座がありました。

KIMG0998.jpg
後醍醐天皇玉座。

こちらも建築様式は後世のもので、桃山時代。吉水神社の公式サイトを見ると、豊臣秀吉の寄贈により修繕したとありました。
後醍醐さんがいた頃はどんな感じだったのでしょうね

奥に行くと宝物が展示されている一角がありました。

KIMG0999.jpg

吉水神社宝物
吉水神社宝物。

一つ一つじっくり見ている時間がなかったのが残念…。入口の方には古文書もあったり、Fさんに貴重な能面があることも教えていただいていたのに一瞥したのみで、この2枚の写真を撮るので精一杯でした

吉水神社書院より蔵王堂の眺め
書院の庭から見える蔵王堂。
やっぱり蔵王堂って特別ですね。

あわただしく書院を出ると、雨が本格的に降っていました。
再び歩いて昼食会場である吉野山ビジターセンター(金峯山寺聚法殿)へ。

その途中に、前日夜に田中さんから伺った、実城寺皇居の花鳥の間にあったという牡丹の板ぶすまが飾られている車田商店があり、その衾(ふすま)を見学させていただきました。

KIMG1004.jpg
お店の方に声をかければ見せていただけるのではないかと思います。

こちらのお店は山伏道具が売っていて面白かった! 出入り口付近にはほら貝がズラッと並んでいて、高いものは20万を超える。
田中さんは「わたしならこれを選びます」と6万円くらいのを指さしました。理由は、よく巻いていていい音が(?)出るからとのこと。確かに、ほかのに比べて中央がふっくらとしていました。
もう、田中さんのお話は、本当に面白いんですよー!!


お昼もたいへんに凝ったお弁当をいただきました。寒かったので、あったかいお味噌汁がうれしかったです

この吉野山ビジターセンターは、吉野の桜や歴史・修験道のことなどが学べるようになっている施設。
ツアーではこちらの見学は入っていなかったので気付かなかったのですが、田中さんが一階部分に飾られてあるすばらしいジオラマのところへ連れて行って下さいました。
このジオラマ、吉野の全景を立体的に作ってあり、本当にわかりやすい!!! 欲しかったくらいです!(吉野の地図は、南北が逆だったり縮尺が微妙に違っていたりしてわかりにくいこともあるのよー ちなみに上の方に貼った吉野全体の地図も右下の方が北になります)

KIMG1006.jpg
一応全景です。奥の方が南になる。

KIMG1007.jpg
もう自分でもどこを撮ったのかわからない たぶん南の方。
田中さんが、元弘3年(1333年)春、吉野に籠った大塔宮を攻めるために幕府方の金峯山寺新熊野院・岩菊丸がぐるっと東の方から迂回しまず高城山城を落した…等と教えてくれたので、高城山城あたりだと思います

ところでこの旅行記を書くために吉野山ビジターセンターを検索していたら、とてもいい情報を見つけました。

春の御開帳 - 総本山 金峯山寺の口コミ - じゃらんnet
(いちばん上の、あんちゃんさんの口コミです。あんちゃんさん、ありがとうございます!)

時期によるのかもしれませんが、入館料を払った人は駐車場を使えたり、蔵王堂拝観が割引になったりするそうですよ~
(ビジターセンターは空いてない時期も多い感じですので、必ず吉野町公式ホームページ等で確認してくださいね)


昼食後、ビジターセンターを出ると目の前(というか横)は金峯山寺二天門跡です。

金峯山寺境内案内図
⑩がビジターセンター(聚法殿)で、その上の階段のところ。

二天門跡
二天門跡。

そう、村上義光が大塔宮の身代わりとなり、凄絶な自害をした場所です!!
前夜見た古い絵図では、大きな2階建ての門でした。頭の中で想像をふくらませる…なんだかとても生々しい…!

村上義光公忠死之所
階段を上ると左手に碑が立っていました。「村上義光公忠死之所」。

田中さんがこの場所で、「死にたくて死ぬ人はいない、いまここは観光客が訪れる太平でにぎやかな場所となっているが、その下には犠牲となった人の血が流れていたということを忘れないようにしたい」とお話しして下さいました。
田中さんが吉野とそれにまつわる人々を愛しているのが痛いほど伝わってきました。
前日にちょうど、人形劇「ひとひらの太平記」で村上父子の物語を観賞しました。上演されたおはなしらんどカンブリアさんが地元の歴史を愛しているということがひしひしと伝わってきましたので、とりわけ深く心に響いてきたように思います…。


金峯山寺蔵王堂と四本桜
金峯山寺蔵王堂と四本桜。

四本桜のあるこの場所は、元弘3年(1333年)閏2月、幕府軍が吉野城を攻略し、大塔宮護良親王がもはやこれまでと蔵王堂前の広庭に大幕を広げて最後の酒宴を行った同じ場所です!!!
酒宴で宮の従者・小寺相模が敵の首をさし貫いた太刀を掲げて歌い舞っていたその物音が、敵を防いでいた村上義光の耳に届き「宮は死ぬ気だ、そうはさせぬ」と戻ってくるんですよね。
『太平記』のこのシーンは凄味があってものすごく好きだ。

四本桜は「しのものと桜」と本来は言うとのことで、ずっと植え続けているのだそう。その植え続けている理由を聞き逃してしまいました…

ところでこの場所で、前日のシンポジウムのパネリストでもあった五條良知管長の行の途中に行き合いました。峰入り前の行の一つなのだそうです。(Fさんから、管長は絶食中との情報を伺っていましたが、そんな状態でシンポジウムに出席なさっていたんですね…!)
五條管長は白い装束(袖に朱色の平緒がついていた)で二人の僧を連れ、一人は頭襟(ときん)に結袈裟(ゆいげさ)をつけて山伏っぽい恰好をしていました。
なんだかとても貴重なものを目撃したという感じがして、思わず心の中で手を合わせました(-人-)
私は特に信心深いわけではないのですが、吉野にいると自然とそうさせるような感じになるんですよね…不思議です。
(でも、不謹慎ですが同時に「カッコいい」とも思ってしまっていましたよ…


さて、この場所で宮と義光が、「私が宮様の身代わりとなりますので、その間に落ちて下さいますよう」「何を言う…! 嫌だ、お前と一緒に死ぬ!!」「聞き分けのないことをおっしゃいますな、さあ」と鎧を脱いで…という感動的な一幕があったんだ…等と感慨に浸る間もなく、蔵王堂に入ります
ご本尊・金剛蔵王権現は御開帳の時期ではなかったので帳が引かれており、お目にかかることはかないませんでした。
そのおひざ元、向かって右の方に畳敷きの場所があり、こちらで田中さんのお話をお聞きしました。

金峯山寺は修験道の開祖・役行者が開創したお寺で、役行者の教えをそのまま伝えた修験の根本道場です。
修行中に役行者が祈ったときに最後に金剛蔵王権現が現れ、それを忘れないよう桜の木に像を彫った。それゆえ、吉野では桜は聖木となったのだそうです。
平安時代から、人びとが麓から持って登った桜の苗を奉納しここに植えられたとのことで、桜は信仰だったんですね。初めて知りました。

こちらでお聞きしていちばん驚いたお話が、明治時代に修験道が廃止になり山伏の廃業届を出した人数が17万人にもおよぶということでした。当時の人口が約3,000万人だそうで、有るサイトによると、当時の成人男性の100人に1人にもなるのだとか。
また、全国にある吉野だとか蔵王だとかの地名は、みなこの金峯山寺の金剛蔵王権現を勧請した、あるいはそれに関係のある地だそうで(山形の蔵王とか)、山伏の人口と考え合わせるとかなりの数にわたるのではないかと思われました。
これほどにまで浸透していた全国にある修験道の痕跡が、いまはほとんど消えてしまったと言っても過言ではない…。
その時の記憶を私は思い出したい…!
これからもっと勉強をしようと思いました。

田中さんのお話はそのほか、高師直が貞和4年(1348年)に吉野を焼き打ちしたときにはすでに再建が成っていたとか、役行者に従っていた前鬼・後鬼の子孫の方のお話とか本当に面白かったです。


その後蔵王堂の奥に入り、仏像や宝物などの説明をしていただきましたが、時間が押していて、この後の自由散策時間のためにタクシーを予約しており焦ってしまい気もそぞろとなってしまいました

そして如意輪寺にご用があるというFさんと、残念ですがこちらでお別れいたしました。
吉野について全然知らなかった私に、いろいろなことを教えて下さいました。このあとの自由散策のアイデアを下さったのもFさんです。
冷静に歴史を見つめる視線と歴史人物たちを愛する熱い気持ち、そして軽やかな遊び心を持っているとても素敵な方 お会いできて本当によかったです。Fさん、どうもありがとうございました!

(ちなみにFさんは次の週末も吉野を訪れていらっしゃいました… 本当に脱帽です!!)



このあと自由時間の観光をしましたが、その模様は吉野編(2日目)その2をご覧ください

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カオリ丸

Author:カオリ丸
下総国の住人。
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